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OLD STORY (古き良き昭和の時代)

 *くれ今昔
 *写真の心
 

くれ今昔
広島県呉市は、平成の大合併で近辺の島諸部を含む郡と統合して未来のあるとても楽しみな新しい町としてスタートしました。
そんな中、呉の旧市街地と言うより、呉の本通のある花屋さんで、昭和初期の写真がカウンターに飾ってあるのを見つけました。(H18.12)
「これは面白い、すごい!!」と思いました。その花屋さんの場所の昭和初期の様子でした。
こじんまりとして、ひっそりとたたずむその花屋さんですが、新しいように見えましたが実は伝統のある、古い花屋さんでした。
そこから、色々な知人に声をかけながら、古い写真を探してきました。私(戦無派)には、生まれた時から、普通にある、写真ですが、よく考えてみると、幼少期にはカメラはすごく貴重だったような気がします。まして、戦争を超えた呉に写真はなかなか残ってないし、普通の家庭では、写真などはほとんど撮りませんし、何かあった時は写真館で撮るくらいのものだったと、解ってきました。
まだまだ写真は探して行こうと思っています。(写真の心にて)  

そして、色んな人からお借りした、資料を併せて考えていたところで、一冊の素晴らしい本と出合うことが出来ました。
その本には、目を輝かせるような、私の探していた写真の数々が載っていました。その本を是非お借りしたいとお願いしたところ、快く貸してくださいました。
その本を母と二人でめくりながら、古い話をしました。
写真を見て思い出されるのは、風景だけでなく、その風景の中にいる自分が主人公の物語です。

その本などから抜粋した、写真のコピーや、説明文などを皆さんに紹介しようと思います。
呉の方だけでなく、きっと、昭和の時代を知る方ならば懐かしい何枚かの写真に心が温かく、せつなくなると思います。
 
S36年とH16年の灰ヶ峰からの呉市街地の全望です。
呉にお住まいの方でなくても何度か登って見たことのある景色だと思います。
夜警はまた、素晴らしくきれいです。
S20年中頃、阿賀にあったバスの整備工場前で撮影
S30年とH16、蒲刈宮盛を走るバス

父と母がバス関係者だったので興味のある風景です。
S30年頃の沖美町のバス停風景
島の移動手段として、バスは多いに利用されていたのがわかります。
S38年頃
呉市内での「ロバのパン」

私には想像できない風景でした。
ロバのパンってご存知ですか
S33音戸の瀬戸
音戸大橋と言う朱赤の橋が建造されたのはS34年です。今でも利用されている音戸の渡し舟がその頃は唯一の交通手段でした。
S36警固屋(ケゴヤ)側から見た音戸大橋
江田島にある海軍兵学校(現在は資料館)S28年とH16
江田島は過去、たくさんの学生たちがいて盛り場など栄えていた。 呉は戦艦やまとに代表される造船の町として栄えた。
S38海上保安大学巡視船第二こじまの進水式

S33

S50
呉駅S43 H16
S40年頃の呉駅前、現在、そごうのある場所。私はこの場所は遠い記憶があります。
幼き頃、バスでお財布を無くして、ここに行ったような気がします。
バスの切符を売っていたのではないかと思います。
S40年の風景らしいですが、これが呉駅の前を東西に横切る、国道31号線
大きなガスタンクがあったのを覚えています。
私は母の仕事の関係で、呉の卸売り市場にはよく行っていました。
とてもたくさんの人でにぎわっていました。
S38呉を出た、三原行きSL
S35年頃の呉越
市内電車が通っていたそうです。
呉の三条〜長浜まで最長、走っていたのでは??
S46年当時、父の仕事の関係で、弾薬という言葉はよく耳にしていました。広から八本松に弾薬を運ぶために出来た弾薬輸送バイパス、現在の広のバイパス、国道375号
S39年頃の広商店街
広商店街S39 江田島の町
夕方になると、商店街にはたくさんの人が歩いています。現在は車で移動するので、人影もまばらです。
国立呉病院S30頃と現在。私はこの病院で生まれましたので、きっとその当時は左の写真と同じ様子でしょう。
呉、堺川商店街、ここはおばさんの家に住んでいた高校時代によく買物にきました。昔と賑わいは変わらないように思いますが、店は少なくなっています。
広の三木谷病院は大正時代に建造された、大正ロマン漂う佇まいです。
堺川商店街の魚屋さんの夕方の様子
割ぽう着をきた、おばちゃんたちは定番です。
S22年頃の市電
祖父や父にこういう光景の話をしてもらった覚えがあります。
S30年頃の市電 S30年頃の音戸で行商にあるく母子
S40年頃から焼山に、団地が造成されていったみたいです。今の焼山は20年ほどで信じれないくらい発展しました。
S40年頃、呉の本通り、四ツ道路付近を走る市電 S30年頃の学校校舎
S30頃の狩留賀海水浴場、プールや公園など遊具のない時代は海水浴はとても楽しみでした。整備された現在の海浜公園には人はまばらです。
S44年頃の呉中央桟橋。当時は島からの移動は船が中心だったことがわかります。
S30年中通(現在、レンガ通り)のサン劇前
中通りは現在はとても整備されていますが、S40頃には市電や車も通っていました。
しかし、誰もが口を揃えて言うのは、人があふれていたそうです。
両城の階段のように建てられた家 S33年も今もほとんど変わりません。
郷原、風景は変わらないように思えますが、現在はこの道をすごい数の車が行き交います。まして凧揚げなど出来るはずがありません(S40年頃)、私も上げていた凧が飛んでいってしまい、すごい距離を凧を追いかけて走った覚えがあります。車などいなかったのでしょうか(笑)
S40年頃の田園風景。わらぶき、かやぶき屋根がほとんどでした。S50年頃にもまだ、かやぶきの家がたくさんありました。
現在では、ほとんどありません。何しろ、かやぶきを手に入れることが大変な時代と変わりました。
S24年頃の郷原
牛を使ってたんぼをたがやしています。
私の幼い頃、近所の家にはどこの家にも牛がいました。
私の家には早めにいなくなったため、残飯を牛のいる家に持って行ったら、牛のごばんを入れる大きなたらいの中に入れるように言われ、牛に舐められたことを思い出しました。
川原石の漁港です。現在はホテルなども出来、埋め立てされ、この雰囲気と全然変わっています。
S26年頃撮影された川尻
SLが走っています。
S29年頃の運動会の様子。
この頃は家族、近所、誘い合ってお弁当を持って運動会を楽しみました。地域の年間行事です。
学校給食を食べる小学生。 着物を着た人もいつでも、どこでも普通に見ていました。
呉のサン劇前で記念撮影。
私は撮った覚えはありませんが、たくさんの写真が飾ってあったのを覚えています。
だ菓子屋さん、綿菓子やくじ付きガムやあめ玉、
色んなものを買いました。
これ以外にも、まだまだ写真を集めてみます。そして、古き良き昭和の時代を心の隅にとめながら、平成の新しい時代も楽しんで生きていきましょう。



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