彼と同級生だった(自動車短大)中島律氏(元WRCラリードラ、現ダートラ選手)にも聞いたことがある。「源氏は本当に車好きだった。授業はあまり出なかったような気がする。いつでも車に乗ってうろうろしていた」。助手席に♀が乗っていたかは聞き忘れたが(笑)、あまりデキのいい生徒ではなかったようだ。
 私が一伸氏を通じて源さんに知り合った時、彼は当然既にトップドラであった。当時(1986?)中国地区では、ダートの地区戦はあったもののジムカーナは草イベントしかなかった。源さんは弟の頼重選手と共に、中国を代表するサニー使いで、全コーナフラットアウトの大ドリフトでにぎやかしていた。
 最初に全国に名が知れ渡ったのが、現全日本ダートトライアル選手権の前身である“JMSツアーシリーズ(1987?)”のタカタラウンドのC1優勝だろう。雑誌で名が売れている関東選手、当時最新鋭のFF車EP71を一蹴した白いB310小山サニーの優勝だった。この頃は話もあまりできないくらいのスターと感じていたが、地元選手の活躍にワクワクし嬉しかった思い出がある。
 一伸氏らが中心になり、草イベントの発展形として中国地区にも“ジムカーナ中国地区戦”が立ち上げられる事になった。ダートのトップドラ達も皆、協力を惜しまなかった。ナンバー付き車両(当時は確かB車両)はそこそこ台数が集まったものの、C車両はそういったダート上がりの者が、ダート車で参戦していた。源さんもその1人だった。
 
当時の舞台は木材港という、海辺の工業団地内だった。ダートの首領、宮本清氏の本業材木関係のツテで使用OKとなった、完全フルフラットパイロンコースである。土曜日の仕事終わりの材木のレイアウトで、パドックやコース取りが変化する、それはそれで面白かったコースだ。ここを源さんのサニー、一伸氏の86トレノが全開ドリフトで走行していた。タイムはナンバーつきのAE86やCR−Xに対して約10秒アップ、走る姿はカッチョ良く、イベント当日はギャラリーが多く来すぎて警察が交通整理をするくらいの賑わいだった(・・・なつかしい)。ジムカーナバブル期だったのかもしれない。本当に楽しかった。