1989年、長年乗りつづけたサニーに別れを告げて、長年のノウハウを注ぎ込んだスターレット(KP61)を製作。確か赤が少し入ったダークブルーメタリック塗装は、一伸氏の塗装だった気がする。
 その年の暮れ、今でも大評判のキョウセイで行われた最初の大会、“第10回 JAPAN CUP スーパースピードスラローム(ちなみに西元のメジャーデビューでもあります 笑)”に中国C1代表で登場。ライバルはEP71のアンパンマン川村徹氏、北海道と関東の両武田選手。エナペの久野選手、そして最大のライバルは弟の頼重選手だった。
 大会は寒空の下、風船の飛び交う選手入場から始まった。その年新調した白いスーツの源さんも勿論優勝を狙っていただろう。ちなみにおいらはコントロールタワーから見ていた。
 駆け抜けるKP61スターレット。決して美しくは無い走りだが、力強さは誰にも負けない。この当時ジムカーナも転戦シリーズを試験的に行っていたが、その中国ラウンドではあまりにも激しい走りで片輪走行は当たり前で、“内藤サーカス”とまで言われていた。
ちなみに成績もぶっちぎりで良かった。誰もが首をかしげていた。「ジムカーナって無駄やロスを削る競技と思っていた。ないとうさんは違う!。無駄だらけで繊細でなく、荒いよう・・・。でも速い!!格好いい!!感動する!!」。キョウセイでもその全開走りが炸裂!。ベストタイムをマークした。丁度C1クラスは私のアナウンス担当で、足がふるえたのを覚えている。
 最後のアンパンマン走行・・・の前にトラブル発生で長期中断。コンセントレーション乱れたか、アンパンマンタイム出ず源さん優勝決定(涙)!!!。弟頼重選手も3位である。
 車両保管で2位の岡部選手がこう言ったらしい。「ウチのチューナー(浅野自動車)はKP61では日本一と思っていました。そのKPでボクは完全に勝てると思っていました。でも小山チューン +内藤兄弟には勝てない・・・」
 表彰式では中央に源さん、向かって右の3位に頼重選手の表彰台。背が高くない源さんは、一番高い所に居るのに、2位の岡部選手と頭は同じ位置だった気がします(笑)。