翌年1990年は名阪の全日本、天候は史上最悪の嵐。開会式が中止になるくらいの雨と風は吹き付ける、奈良の山奥名阪スポーツランドだった。ちなみに西元は、前年のサポートアナウンスからメインアナウンスへと成長していた・・・がそれがいけなかったのか?くらいの雨だった(笑)。
 前年チャンピオンマシン、FRのKP61ではまともにゴールする事さえ困難な状況。残念ながら8位と敗れ去った。このときのチャンピオンは、当時唯一のシティGA2のキャロッセ長瀬選手(現キャロッセジムカーナ監督)だった。
 この年は山本選手のYK01G(一昨年までの古瀬選手M1)登場や、EVA6A軍団(中矢兄弟・北海道林やよい選手)、一伸は現Zip‘s大将貞井選手とロータスヨーロッパ、アンパンマンはSUZUKIマー坊と、春田選手はゴースト・・・、そして真打は、今でもたまに雑誌に登場しているOKUYAMA S1Dの遠藤毅選手。Dクラス黄金期だったのかな?
このとき九州の山本(2002年C1ランキング2位の、あのナイジェル山本) もKPだったが、軽量化のためハブナット2個作戦が危険と判断され出走拒否と、KP勢は全滅だった。ちなみに表彰式は、会場から車で約10分の所で行われたが、遅刻した源さんの代わりに表彰式に前に出たのは、私だった(遅れてきたので、途中からは交代したが)。
 この伊那を制したのは、源さんを師匠と慕っている、同じ小山自動車軍団の谷口聖二(GA2)だった。涙のビッグイベント初優勝に、嬉しそうにもちょっと悔しそうな源さんでした。

 実はこのミッション交換時に、ミッションを運び込んだサービスカーがパドックに入ったが、重たいので車両近所まで運んだのが規則に抵触(本来サービスカーが入ってはいけない場所)との事で、もしクレームが付けば失格という注意がされていたのは関係者のみ知る話だろう。
 次の年1991年、ライバルは続々とFFのGA2に乗り換える中、FRのKP61で死闘を続ける内藤兄弟。ラリーキッズ伊那で行われたJAF CUPでは、決勝1HEAT目にミッションが破損。2HEATまでに近所である牧澤氏(元オールスターダートチャンピオン?)から借りたノーマルミッション換装し、何とか出走する。が、さすがに4位に入賞がやっとだった。