翌年、とうとう源さんも時代の流れでFF車のGA2の投入となった。NSXと同じ、真っ赤なシティである。誰もが“後輪駆動の源さん”というイメージで固まっていたため、「絶対に乗りこなせない、パイロンなんて問題外!」と思っていただろう。事実私も、すぐに結果は出ないだろうと思っていた。が、速い人は何に乗っても速い。というより元々基本ができていないので、駆動によってのテクニックは無く、単に動物的カンで乗りこなしているようだった。
 確かこの年から正式にツアーシリーズが全日本格式になったのかな?。その総決算は鈴鹿だった。ベストタイムは、キャロッセの長瀬GA2でぶっちぎりだった。源さんは2位だったが、納得いく2番手だった。が、再車検で長瀬選手が失格となった。追加ゲージの材質がアルミだった。メインのループは勿論スチールだったが、追加バーが材質違いで失格判定だった。勿論出走前車検はOKであり、本人も確認したらしい。その場でNGならば、はずす事も可能であった・・・が結論は失格。源さんは繰り上げ優勝だったが、その顔に笑いは無かった。源さん、頼重さん、他のC1ドライバーも皆、「優勝は長瀬さん」と口を揃えた。
 1994年は全日本フル参戦で、2勝ゲット。第5戦の北海道ラウンドでは、根尾選手とダブルエントリーでの優勝。根尾選手のマシンをレンタルさせてもらうのに、気を使ったのか前日土曜日の練習はパスし、本番一日だけ乗っての優勝。この優勝が全日本ジムカーナ最後の優勝である
 1995年、活動を縮小したが、地元の全日本とJAF CUPは参戦。地元のタマダ全日本では2位(優勝は弟の頼重選手で、コンマ2秒差)、鈴鹿のJAF CUPは3位とテクニックは全く衰えていなかった。
 活動の縮小のひとつは、源さんを長年バックアップしてきたBSタイヤのスリック撤退があった。F1参戦が噂され、ラリー、ジムカーナのスリックと撤退されていった。一伸氏と共に、BSスリックに大きく関わってきた源さんは、メーカーを換えてまでの参戦は考えていなかったのかもしれない。

 翌1996年、1番弟子の藤沖選手とCR-X(EF−7)ダブルエントリーで4戦のスポット参戦。優勝は無かったが、確実に上位に入賞していた。

それを最後に源さんの全日本参戦は無くなった。そして、あの激しいサーカス走りは見られなくなった。