まぼろしの野呂山サーキット
           第一章
野呂山サーキット
            第二章
野呂山スピードパーク
            第三章
わが青春のNSP
           最終章
写真館資料館
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写真館資料館
       まきの資料館
写真館資料館
    あらいさんちの写真館

    サーキットの施設
サーキットの歴史
野呂山スピードパーク
番外編

サーキットの歴史


野呂山スピードパーク

コースは山の斜面に沿って作られていた。高低差は30mもあると言われる。750人収容のメインスタンド前の直線300mはフラットだが、1コーナーからどんどん下り、最終コーナーは上っていくというコース。スタンドからは全コースが見えた。コーナーは11あり50R〜15Rまでの小さなコーナーで構成されていた。ピットは30、3階建てのコントロールタワー、ドライバーズサロン、レストランも完備されていたようだ。テクニカルも必要で度胸と腕、両方必要なコース。コースの設定は1720m、1380m、932m、の他にももともと畑であった場所なので農道を利用すれば何通りもできたようだ。



自動車レースが行われる場所サーキット

ヨーロッパやアメリカなどレースの歴史の長いところではレースの始まりが一般の公道を使用しての競争だったこともあって、市街地の道路を閉鎖して行われることも少なくないようだ。例えばF1のモナコGPやルマン24など代表的なものでしょう。しかし日本ではそういったものはほとんどありません。ラリーにて普通の道を使っていると聞いたことはありますが、レースではやはりないと思います。
最近ではF1の日本GPも定着し、テレビ放映も一般的に行われモータースポーツブームも手伝い数々のサーキットがオープンしました。

野呂山スピードパークを調べているうちに解ったサーキットの歴史

日本のサーキットの歴史をわかる範囲で記してみます。

※これらの開設時期は、明確ではありません。例えば今回調査した野呂山スピードパークの開設は昭和44年10月ですので、記してある昭和45年5月というのは、もしかしたらなんらかの公認を取得した時期か全日本クラスのレースが行われた時期か・・・よくわかりません。多少のずれがあったかもしれません。

1936年6月
昭和11年
多摩川スピードウェイ
東京都 1939年閉鎖 東京、多摩川を渡る東横線の下流の川原に作られた日本で最初のサーキット。大正時代から始まったと言われる日本の自動車レースでここが初めての常設コースのようです。1936年故本田宗一郎さんがオープニングイベントの「全日本自動車競走大会」に出場したそうです。戦争時期に出来、現在は観客席のみが名残としてある。オーバルコース。戦争時期に6回のイベントが行われたと言われる。 一周1200m
幅20m
1962年9月
昭和37年
鈴鹿サーキット 三重県
1965年7月
昭和40年
船橋サーキット
千葉県 1967年閉鎖 船橋市船橋オートレース場内に海岸線にそって作られたコースで外国人(ピエール・タルフィ氏)の設計による。平坦なコース。オープニングレースは1965年7月「全日本自動車クラブ選手権レース大会」。(これは、かつてNSPスタッフだった永沼さんから教えていただいた浮谷東次郎さんと生沢徹(生沢画伯の息子さん)さんの伝説の一騎打ち)。3年間で35のイベントが行われたと言われる。 2400m
3100m
1800m(外周)
1965年12月
昭和40年
富士スピードウェイ 静岡県
1970年5月
昭和45年
野呂山スピードパーク
広島県 1974年閉鎖 国立公園野呂山の山頂付近に作られたサーキット。標高830m。瀬戸内海を一望できる場所。オープニングレースは1970年5月の「全日本ストックカー呉200kmレース」(NAC主催・塩澤会長)、左回りの932mのテクニカルコースをビッグストックカーが100周も走った。5年間で16のイベントが行われたといわれる。 1720m
1380m
 932m
高低差30m
1970年6月
昭和45年
日本海間瀬サーキット 新潟県 1981年一時閉鎖
1987年再開
JAF公認ではない
越後七浦シーサイドラインの下山海水浴場に近接。海岸沿い。農道を利用して作ったためコースの内側は畑だったようだ。高低差11m。細かいコーナーは19、コース幅は7〜15mのテクニカルなコース。オープニングレースは1970年11月「ACNP(新潟県オートクラブ)日本海レース」だったと言われる。 2004m
1970年6月
昭和45年
筑波サーキット 茨城県
1970年7月
昭和45年
北海道スピードウェイ
北海道 1973年閉鎖 白老町、白老サカタランド内にあった。ヘリポートもあり、観客の収容人数はコース全体で約10万人という大規模なサーキット。オープニングイベントは、SCCN(日産スポーツカークラブ)が主催し、高橋国光さん、砂子義一さんのニッサンR380が走った。エキジビションではストックカーで有名な鈴木誠一さんのセドリックが走った。4年間で37イベントが行われたと言われる。 2553m
2350m
直線800m
1971年4月
昭和46年
中山サーキット 岡山県
1972年7月
昭和47年
陸奥湾スピードウェイ
青森県 1973年閉鎖 野辺地町。陸奥湾の海岸線のすぐそばに作られた。オーナーは農事法人の組合だったようだ。メインストレートと最終コーナー(特に海に接近)は波打ち際。平坦なコース。超高速コースで度胸と車の性能で左右すると言われた。オープニングレースのストックカーは平均速度200km/hを超えたといわれたほどだったようだ。遅い春から8月くらいまでしかレースは出来ないといわれた天候に恵まれない土地だったらしいです。オープニングレースはNAK(日本オートモビル協会)の「むつ湾国際級ストックカー300kmレース」で2年間に10レースほどが開催されたと言われる。 4500m
直線1600m
幅20m
1972年11月
昭和47年
厚保サーキット
(改西日本サーキット)
現 MINEサーキット
山口県
1975年5月
昭和50年
スポーツランド菅生
(改スポーツランドSUGO)
宮城県
1985年9月
昭和60年
北海道スピードパーク 北海道
1986年9月
昭和61年
西仙台ハイランドレースウェイ
(改仙台ハイランドレースウェイ)
宮城県
1987年8月
昭和62年
阿讃サーキット 徳島県
1990年10月
平成2年
オートポリス 大分県
1990年11月
平成2年
TIサーキット英田 岡山県
1991年4月
平成3年
エビスサーキット 福島県
1992年10月
平成4年
十勝インターナショナルスピードウェイ 北海道
※臨時のサーキットとしてレース
川口市営自動車競走場、ビワ湖スピードランド
※建設途中に挫折
日本平スピードウェイ、伊豆スピードウェイ


※ストックカーレースとは
 日本GP以外のレースとしては日本最古のレースで、105マイルクラブ(後NAC・塩沢しんご会長)主催で行われていた。NSP(野呂山スピードパーク)でも全日本のストックカーレースが行われたと聞きました。もともとアメリカのレースでアメ車のような大きな車で行われるので1tonを超える2リッターカー市販車で左まわりのコースでレースは行われた。NSPでも派手な演出をしてローリングスタート形式をとっていたので観客は大喜びしたと言われていました。セドリック、グロリア、クラウンなど。NACは関東を中心に行われたが、地方のサーキットにも進出し、日本海間瀬サーキット、野呂山スピードパーク、陸奥湾スピードウェイ、北海道スピードウェイではオープニングレースを開催し、サーキットとストックカーレースの両方の人気に拍車を高めた。
                                  

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